よく、子どもが「なぜ、勉強しなくちゃいけないの?」という疑問を投げかける時がある。子どもの意見としては、「鎌倉幕府がいつ作られた」とか「面積の求め方」が人生の何の役に立つのか分からない、という思いが根底にあると思う。子どものうちはそれで良い。大人に促させるまま勉強すれば、良い会社に入って、良い仕事ができる。勉強で困るのは子どもの頃よりも、むしろ大人になってからの方だ。特に、「学歴」これをコンプレックスに思う人は意外と多い。「もっと子どもの頃に勉強しておけば良かった」多くの大人が一度は思った事だろう。

でも一つ思う事がある…「勉強は大人になってもできるのに、なぜ子どものうちに差別するのか?」という事だ。大人になってからの勉強は殆ど評価されない。20代、30代になって「数学」や「歴史」の勉強をした所で「へぇー、勉強熱心だね」とは言われても、それが直接的に昇進や昇給、転職に影響を与えるわけではない。子どもの頃のたった10数年間の勉強で人生の行方が変わる。自分が大人になって努力した事が評価されない、子どもの頃の勉強の成果だけで就職先や人生が気決まる。

これって不自然ではないだろうか。

勉強の重要性を実感するのは大人になってから、だと思っている。
子どもの頃の勉強はある意味で自我の無いものだ。大人に促させるままに「塾」に通ったり、家庭教師が付いていたりする。それは、子どもの力というよりも大人の財力だと思う。僕が子どもの頃は、家庭が貧乏だったという事もあり、「塾」に通う事ができなかった。大人になった今から振り返れば、子どもの頃に「塾」や「家庭教師」が付いていれば、僕も「三菱東京UFJ銀行」とか「ベネッセコーポレーション」とかに入社していたのかもしれない、と思う。

大人になってからの勉強が評価される社会。そういうものがあっても良いと思う。30歳になって勉強の重要性に気付いた「A氏」が一念発起で大学に入学して、卒業後はまったく違う業種の会社に就職する、そういう社会があっても良いのではないか。そもそも22歳で新卒なんて誰が決めたんだ。国か?行政か?会社か?終身雇用制が崩壊した今、多くの人が自分の将来に不安を抱いている。それは日本社会、とくに会社社会で行われる事が専門スキルをそれほど必要としない事だ。例えば、営業に大切なのは巧みな話術ではなく、豊富な専門知識ではなく、何度電話で断れても再度チャレンジする忍耐力だと思う。そんな人が60歳で定年になって行き着く先は、「ハローワーク通い」だろう。自分に職が無いと落胆する人は多い。60歳で定年になったのだから、空いた時間で必死に勉強して新しい仕事やスキルを身につけて新たな仕事をしてもいいと思う。

結局は、60歳で定年になっても若手で代用できるスキルしか身に付かないのが今の日本社会なのかもしれない。子どもの頃のたった10数年間の勉強。それも丸暗記型の教育を施されたものに、それほどの価値はないのかもしれない。ユニクロやパナソニックが外国人の採用を加速させている。言って見れば、日本人にそれほどのスキルは無いという現われなのかもしれない。インドに行けば数千万人単位で日本人よりも数学に長けた人間がいる。お隣の中国に行けば、数億人単位で組み立てといった単純作業を黙々と低賃金でこなす人材がある。日本人メリットってなんだ?今、60歳になった大人は言えるだろうか?「必死に勉強しても、60歳になったら仕事はないぞ」って…。

もっと大人に手厚い社会。大人が再出発できる社会が必要だろう。そんな社会があれば、不良だって校正できる。もっと多彩な職につける。子どもだって安心して、ポケモンやモンスターハンターで遊べるだろう。

長くなったが、ここで終わりしておきます。また鬱憤が貯まったら書いてみょうと思います。でわ。