有吉弘行。この人の名前をテレビから聞かない日はないだろう。日経エンタテインメントが発表する年間テレビ出演本数ランキングでビビる大木さんを抜いて年間1位に輝いた。彼の名を世に知らしめたのが、アメトーークでの品川庄司の品川さんへの「おしゃクソ事件」だろう。毒舌王有吉として括弧たる地位を築いた瞬間だった。今のちびっ子は知らないと思うが、彼のブームは今回で2度目だ。1回目は電波少年という伝説番組の企画「ヒッチハイク」での帰国後、猿岩石として社会的ブームを起こした時だ。「白い雲のように」はミリオンヒットを記録した。



しかし、そのブームは続かなかった。現在の地位を築くまで約10年間。彼の成功と転落があった。その様子を自身の著書「お前なんか死んでいる」で語っている。今回は、そんな壮絶な有吉弘行の転落と成功について書きたいと思います。

●猿岩石ブーム、最高月収2,000万円!
「猿岩石」で人気がピークだった頃、まったく休みなしでした。休みなしで毎日何本も仕事をこなして、移動は事務所から用意されたワゴン車で僕ら専用の「猿岩石カー」。寝るのもほとんど「猿岩石カー」の中でずっと年末の忙しさみたいなものが続いている感じでした。(中略)あの頃、僕らは給料制だったんです。固定給が確か月100万円くらい貰ってました。それにCDとか、CMとか、本の印税とか重なった時が一番多くもらって、僕の記憶だとたぶん、一番多かった月で、2,000万円ぐらい。しかも2人分一緒に貰うんで、物凄い厚さがありました。現金で4,000万円って見ることないんですよね。その場で4,000万円分のぶ厚い札束を2人で分けてもらってたんですけど、笑っちゃいますもんね。「なんだ、これは!?」っていう。ないんです。「やったな!」とか、そういうのよりは「怖い」っていう、「なに、コレ!?」っていうそんな感じ。2人ですぐに太田プロの近くの銀行のATMに行って、口座に預け入れようとしたら、いっぺんに入らないんですよ。ATMって1回100万円ずつぐらいしか入らないから、20回ぐらいに分けてずーっと入れてるんです。
猿岩石ブーム、彼には巨額の富が舞い込んできたそうです。しかし、有吉さんは豪遊などは行わずひたすらお金を貯め続けたそうです。
猿岩石ブームはまで続いていて、仕事がなくなる前の金に余裕があった頃、たぶん僕の通帳にあった残高は「7,000万円」ぐらだったと思います。(中略)だいたい手始めに税金でごっそり持っていかれるんで、前の年に稼いだ分の税金は次の年に来るんですよね。僕の場合、税金を払うときには仕事がなくなってたんで、貯金削って払うしかないんです。それでごっそりもっていかれて、7,000万円があっという間に4,000万円くらいになりました。
猿岩石ブームからの劇的な成功。有吉さんはそのブームが続かないまでも、ラジオ1本くらいはレギュラーを持っていると思っていた有吉さん。しかし、ブームの反動から仕事は激減。数年間、仕事が一本もない時期があったそうです。

●恐怖の午後4時の電話で毎日体が震えていた!!
仕事が全然なかったどん底時代、唯一僕がやらなくちゃならないといけない仕事ってうのが午後4時の電話でした。毎日4時になると、事務所に電話して次の日の仕事確認しなくちゃならないんです。

「有吉です。明日の仕事なんですけど…」
「明日ないで〜す。」
明るく言われてガチャッって切られます。(中略)

午後4時の恐怖の電話は7〜8年続きました。地獄の日でした。
貯金4,000万円からの転落人生。バイトをすればよかったのではないか?そう言う意見もありますが、有吉さん自身(猿岩石の有吉がバイトしている!)というのが嫌で一切、バイトをせず月9万円アパートで貯金を取り崩しながら生活していたそうです。

●スーパーの見切り品がご馳走だった。
まったく仕事がない時代、金もないし、ずっと家にいて何をしていたかっていうと、テレビ観てました。テレビばっかり観てました。何しろ4時に電話したら、1日の仕事終わりなんで。(中略)1日一食です。1日250円。全部スーパーの見切り品。あの頃、スーパーの見切り品がごちそうでした。どんなに腹が減っても待つんです。スーパーの閉店時間までひたすら待つ。すっげー腹減ってるのに延々と待つっていう毎日。

●生きているよりも自殺した方が楽だと思った。
仕事が減って給料が歩合制になって、ギャラが一桁になって、月7〜8万のギャラが何ヶ月か続いた頃、「そろそろ給料がゼロになるよなぁ…」って思ったときに僕、「自殺しょうかな…」って思いました。「もうこのまま仕事が減っていって、もう上にあがる目はないな、どんどん下がっていく一方だな…」って考えると、行き着く先は「ホームレスか自殺かしかないよな」って思ったんですよ。
自殺を決意した有吉さん、しかし、その後、彼を救ったのはあの伝説的な番組だったそうです。

●僕を救ってくれたのは「内P」
今、僕が芸人を続けられているのは、「内P」のおかげです。まったく仕事がない時期に、「内P」だけが僕のこと呼んでくれたんで、なんとか芸人を続けていられたんです。タイミングも良かったですよね。「手裏剣トリオ」(猿岩石が一時期、改名した名前)で「内P」に出ていた頃って、世間の人たちも「猿岩石」っていうのが頭から消えつつあったんですよ。猿岩石時代を知らない人たちも出てきたりして。だから何やってもいいみたいな感じだった。(中略)だから僕の中では、「内Pでデビュー」みいな気持ちだったんですよ。
今のちびっ子は「内P」すら知らないと思うけど、猫男爵として登場する以前、有吉が「手裏剣トリオ」として登場していた事を知るファンは少ないかもしれない。

●おしゃクソ事変
僕の「月収30万円キープ」っていう無敵状態がなんとか1年ちょっと続きました。「これホントに一生このままでいけるかもしれないぞ」と思った頃、「アメトーーク」で例の「おしゃクソ事変」が起こったんです。あの一件をきっかけに、「あだ名」とか「毒舌芸人」ってことで一気に仕事が増えました。それが4年くらい前。(中略)それでも今回は舞い上がりませんでしたね。なにしろ前回の猿岩石の経験があるんで。グンと上がったのも凄いけど、どん底急降下したのもすごかったっていう。だからこ今回は、「今から落ちたときに備えておこう」っていう、後ろ向きなポジティブさはしっかり持ってました。
おしゃクソ事変から数年。現在の有吉さん、AKBとのレギュラーを始め、冠番組まで持つようになった。しかし、一度の挫折。2度目のブレークを経て、彼は教訓を学んでいる。ある意味では「良い人」なのかもしれない。給料が歩合制になった今、有吉さんの年収も気になる所ですが、厳然に貯金している姿が想像できます。失敗を経験した奴は強い!という言葉もありますが、有吉弘行の言葉にはそういった重みがあるのかもしれませんね。

これからも活躍を期待したところです。